これはさすがに書きにくいね。
一言で片づけてしまったら自分に申し訳ないし、みんなにわかるような簡潔に書かないといけない。
推薦してもらえるように、頑張ろう。
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私はどんな人か?
私の名は兪子豊、男性、中国出身、19歳の時に、大学教育を受けるために日本にきた。
今は名古屋大学、工学部物理工学科、応用物理コースの4年生、生物物理に熱中している。
学校の近くの小さいアパートで独り暮らしをしていて、彼女もいなくて、毎日映画とゲームで娯楽する日々を送っている。
お父さんは自分の会社を運営していて、結構ストレスがたまっているようですが、近年は少し笑顔が多くなった気がする。いつも私に大きな希望を託し、最適な仕方でないと厳しく叱っていた。
お母さんは国立の研究所の学会誌の編集者を務めていて、いつもやさしく、私の夢をしっかりと支えてきた。お父さんが私をたたくときに、心が痛んで、介入することが多かった。しかしお父さんは中国の伝統的なお父さんで、子供の心の中で、一番偉い人にならなければいけなかった。そのために、二人の間喧嘩が多かった。
私は周りの人の評価を大事にしている。特に才能が認められたときに、至上の快楽が感じられる。
そのために、嘘をついたりすることもあった。周りから悪く評価されることが怖くて、自分の弱い点を受け入れづらかったのです。その反面、私は神の代わりに、科学を信じ、自分の努力で世の中を変えようと努力をし続けていた。相乗効果が出るはずの二つの組み合わせが、なぜか激しい競争の中で弱まって、逆に私の才能を抑えることになってしまった。知らない人に会話するときも、奨学金を応募するときも、いろいろな場面でその怖気を克服しなければいけなかった。
スポーツが弱くて、体つきも人より細く、喧嘩をすると負けるほうではないかといつも思う。しかしプライドが高く、少しでも勝つ可能性があればきっと感情的になって、命も構わずに拳をふるまうだろう。
私は夢をあきらめたことがなかった。子供のとき、科学者になりたかった。いろいろ科学のほんの読んだり、SF映画を見たり、実験室に入るとなんとなくテンションが高かった。どこで受け継いだ思想かはもう思い出せないけど、そのときは「実用主義」の思想だったのだ。自然科学こそ、世界の原則、原理であり、人文などはいつまでも適用できるわけではないから、自分の時間を効率的に利用したいのなら、理系に進んだほうが賢いと思った。
そうして、自分の中でたくさんの可能性を否定していた。しかし勉強も進んで、研究者として働く実情を聞いて、そういう人生は少し物足りないかと思っていた。お父さんの影響もあるでしょう。「どんな仕事が自分にとって出世できるかを考えなければいけない」とね。確かに、科学界で自分の名を知られるには、すばらしいセンスと運が必要だ。一生研究して何の結果もなかったら、「出世」というのはどんどん自分から遠ざかるでしょう。
しかし、どんな可能性があるのかを考える暇がなかった。中学校はエリート校で、毎日夜の自習の前に必ずテストがあった。いい点数が取れたらうれしいが、取れなければとても悔しくて、「勉強しなきゃ」と思っていた。しかし、もともと責任感のある人ではなかったのだ。少し成績がよくなったらすぐリラックスして、勉強を放っていた。そのため、ずっとランキングの前位に入れなくて、気持ちが「がんばろう」から、「これでも生きていけるんじゃない?」という諦める気持ちと、「なぜ俺がうまくならないんだ!」という自責の交互になってしまった。
それからの私は、いやな気持ちを避けるために、競争を極力避けていた。
みんながやらないスポーツ(テニス)をやったり、自分よりもうまくない人の群れ(成績中間)に入ったり、学校で教えない知識(プログラミング)を見たり。自分のことを正面から見ることさえ、避けようとしていた。
そのときだと思うが、センチメンタルの気持ちがだんだん上昇して、一人でいたら、なんだか悲しくて、哀れで、なきたいけど、その哀れな気持ちを美しく感じはじめた。それで日記を書きまくっていた時期もあった。夜の自習で静かだから、悲しく懐かしい気持ちの最適な時間に、音楽を聴きながら、自分の心情を文字に残していた。
その中にも悔しい気持ちが時々残されて、「がんばろう!」「俺こそ王様だ!」など、信じたいけど、信じられない言葉の形で残していた。
高校はその続きで、しかし違うのは、「外国語学校」だった。
成績の優秀な人はここに来なくて、国内のいい大学を目指している。日本語を勉強して、日本に行こうとは思っていなかったが、エリート校の校内選抜(80/220)に落選して(~95)、ほかの学校に行くか、この日本人と協力して作った「外国語学校」にいくかだった。半年の時間を無駄にしたくないと考えて、ほかの学校の試験を受けても、いい点が出せるかといったら、確率としてきわめて高いと思った。まあ、その激しい戦いから身を引こうとも思ったけど。
高校の時に、「エリート」ではない人をたくさん見てきた。自分がどんなものだ?比べて比べて、実は自分よりうまくない人がいっぱいいたのでは?そのときは、頭の中はボーとして、世界がすりガラスをかぶったように、頭の中に像を描くことができなかった。
日本に来て、大きく変わったことがなかったが、自分の将来を考えて、いらいらし始めた。
自分がなぜ生きて、何のために勉強し、何のために働き、何のために喜び、何のために泣くのだろう。
どんな人になりたいのか、どんな生活を送りたいのか。
次の年も、考えが続けていた。
その自画像が実現できるように、何が必要だろうか?
心理的準備、経験、友達、そして原則…
日本に来て、視野が大きく広げられ、自分がなりたい人に簡単になれて、誰との相談も必要ない。希望があふれ、昔の自分の愚を笑うようになった。一方、昔のことを諦めることができなくて、選択しの展開が実に苦しいもがくことだった。科学者、研究者、技術者、企業家、役員、フリーター、ライター、芸術家、音楽家、政治家、軍人、社会活動家、有給ボランティアなど、目の前にごっちゃになって、整理しきれない状態だった。
自分の勝手で決めると、努力を信じている私は、結局企業家の選択をしていた。
しかし、選択が決まったことは、ストレスの結末ではなくて、新しい悩みの始まりであった。
どこから始まり、どうやってやればいいかがわからなくて、手本探しをした。
やることがわかっていても、逃げようとするから、いろいろ心理学の本を読んだ。
やり方がわかったら、どう自分をマネジメントすればいいか、時間のマネジメントを勉強した。
これらの勉強は断続的に続けて、急に今年の春(2007年)、
今まで考えた概念が、自分の足止めになっていることに気づいた。
「JOB」として、勉強を考えていた。
お金を稼いで、それから好きな研究などができるのだ。
お金の稼ぐ仕組みを作って、それからいろいろ旅行など、好きなことができるのだ。
というときに、耳の中に入ってきたのは、「If you want a vacation, the job is wrong!」「If you don't like your job, change it!」などだった。
なるほど、私は勉強を負担だと思って、夜遅くまで映画とゲームをやるのは、
一日がんばった心理補償作用であった。
脳の分類のことで、私の成功を妨げたわけであった。
そのときにまたお母さんのアドバイスを聞いた。
「大学の教授になれたら、給料もいいし、安定ではないか?」
とっくに「安定」を諦めた私は聞くと反発をするが、静かに考えると、
研究が好きだから、やってもいいじゃないかと思った。
いろいろ見て、考えて、選択肢をもう一度見比べる作業を行った。
結局企業家の道が結果だった。
一番大きな理由は、ほかの人の命令で働きたくないことだった。
そしてわかったことが、世界の誰でも自分の過去という負担を持っている。
その負担を誇りに思って、明日に向かうことしか、私にはできないことだった。